日本人のとっての”洋服”
ファッションとしての洋服ですが、生活必需品であることも事実。
民族衣装としての“着物”との関係とその歴史をみてみましょう。
日本における“衣”という概念
古来より独特の文化を育んできた“日本”。
長い鎖国時代の中でもこそ、生まれた文化ともいえます。
そんな日本が開国したのは1854年のこと。
1633年の鎖国令以来、220年という長い間に育まれた日本文化。
そこには日本の気候や地域にふさわしい“装い”がありました。
諸外国との交流が生まれた明治維新がもたらした文明開化。
それは精神だけでなく、外見にも大きな影響を与えました。
西洋文化が日本に入り込み、大正時代、昭和時代を経て、国民に広まっていくこととなります。
その奔流の中で、日本人が着る“衣類”も大きく変容を遂げていったのです。
“着物”から“洋服”へ
七五三や成人式、結婚式と今では特別な様相を呈している“着物”。
日本において“着物”は特別なものではなく日常の“衣類”でした。
着物の発祥は古くは弥生時代まで遡ることが出来ます。
3世紀に書かれた中国の歴史書“魏志倭人伝(ぎしわじんでん)”。
その中に日本人の男性は巻布衣(かんぷい)を、女性は貫頭衣(かんとうい)を着用していたことが書かれています。
布だけを巻きつけるか、
2枚の布を合わせたものを被っていたかの簡単な作り。
時を経て、気候の変化に応える様に、袖がつけられ、現在の着物の形になっていったのだとか。
さらに平安時代になると遣唐使が廃止され日本独特の文化が花開きます。
この時代の代表といえば“十二単”(じゅうにひとえ)。
長い打掛を幾重にも重ねる独特の衣装です。
現代でも皇族妃がご成婚の儀に祭してお召しになるのを見る機会がありますね。
華やかで美しい装いですが、その重さご存知でしょうか。
なんと20kg。
とても自由に動ける重さではありませんね。
“労働するものは動きやすい服装”“労働しないものはゆったりとした服装”と定められており、正式な場に出る際には着用する義務があったようです。
時代を経て、少しずつ変化して行きますが、江戸時代の終わりまでその文化は続きます。
文明開化
明治時代に入って、西洋の文化が押し寄せたころ。
ファッションの世界にも“洋服”が登場します。
ただそのころの洋服は“高価な装い”でした。
一般庶民はまだまだ着物を着用していました。
1883年に完成した鹿鳴館(ろくめいかん)でドレスを纏う上流階級の女性たちとは対照的に、
労働に従事する一般女性はまだまだ着物姿だったのです。
その後、徐々に一般に広く浸透し始めます。
完全に洋装というよりは、取り入れやすい方法で広まって行きました。
着物姿に帽子を被ったり、洋服に羽織を羽織ったり。
着物と洋服をコーディネートした和洋折衷が流行りました。
大正時代に流行ったのが“モボ”“モガ”。
聞き覚えのある方もおられるのではないでしょうか?
大正デモクラシー以降、登場した伝統の枠に捉われない先駆的な若者たち。
そのファッションは“モダン”であることがすべてでした。
昭和に入ると戦争や不景気の波で一時期は途絶えたファッションへの希求は第二次世界他戦後、
ようやく本格的に花開き始めたといえます。
文化としてのファッション
1945年の終戦後、力強く復興した日本。
それはまた“洋服”の変遷の歴史でもあります。
わずか75年ほどの歴史でしかありませんが、
今や世界のファッション界の一翼を担うほどに成熟しました。
実際に周囲を見渡せば洋服で生活している人がほとんど。
着物姿を見かけると、思わず振り返ってしまう様になりました。
それでも多くの日本人が幼少期から、浴衣や晴れ着に触れてきました。
日本人にとって“洋服”も“着物”も暮らしを形作る大切な要素として等しく捕らえられている証なのでしょう。
“着物”にも晴れ着と普段着があるように、
“洋服”にもTPOに応じた装いがあります。
クローゼットを開けば、年に数回しか着用しない礼服があるという人は少なくありません。
ライフスタイルに応じた“洋服”を選択すること。
例え見かけが変わっても、季節を大切に生きてきた日本人にとっては不変の文化なのだということでしょう。
何よりも“過ごしやすく、身も心も快適な”ファッションを纏うこと。
選択肢が多い現代だからこそ、自分自身の判断基準をしっかりと持って選びたいものです。
参考
亀山市歴史博物館
http://kameyamarekihaku.jp/18kikaku/webzuroku/index.html
アジ暦グロッサリー